第二章 第67回銅鐸研究会 講演抄録
銅鐸・銅矛破壊と女王卑弥呼の登場

新雪に輝く御上神社本殿の千木と鰹木(画像出典:「近江の古社 御上神社」/御上神社発行 平成8年10月)
新雪に輝く御上神社本殿の千木と鰹木(画像出典:「近江の古社 御上神社」/御上神社発行 平成8年10月)
と き

平成23(2011)年12月3日(土)

ところ 滋賀県野洲市立銅鐸博物館 
参会名 第67回銅鐸研究会
講 師

兵庫県立考古博物館長
 石野博信先生

演 題

銅鐸・銅矛破壊と女王卑弥呼の登場

 
御上神社の神体山=三上山・御上神社周辺(1982年9月13日撮影/画像出典:「近江の古社 御上神社」/御上神社発行 平成8年10月)
御上神社の神体山=三上山・御上神社周辺(1982年9月13日撮影/画像出典:「近江の古社 御上神社」/御上神社発行 平成8年10月)

<お断り>本講演抄録は、人名や地名などの固有名詞について、判断しかねるものや、講師や講演後の質問内容について、聴取不可能なものなどがある場合、カナ表記や、一部の件(くだり)を割愛しておりますので、ご了承ください。

銅鐸・銅矛破壊と女王卑弥呼の登場

橿原考古学研究所研究部長、副所長兼附属博物館館長も務めた我が国考古学界権威者の一人、石野先生
橿原考古学研究所研究部長、副所長兼附属博物館館長も務めた我が国考古学界権威者の一人、石野先生

 ここは銅鐸博物館でして、銅鐸のメッカみたいなもんですけれども、私自身は銅鐸そのものの研究というのはあまりやっておりませんで、細かい文様とか形とか、その造り方とかいうのはよう分からんのですが、銅鐸がどんなふうに出てくるのかと、どういうふうに現地で扱われているのかという事には興味がありまして、そのへんについてはあちこちの銅鐸が出た場所を見て歩いたりしておりました。
 私自身の銅鐸との関わりですと、神戸の桜ケ丘で銅鐸が見つかった時には、もう今から40数年前でしょうか。その時には神戸の近くの高校に勤めており、「銅鐸が出た」という話を聞いた時に、頼まれもせんのに学校を休んで、1週間か10日ほど学校をさぼって現地に通い詰めたというのが、直接に銅鐸に関わった最初だろうと思います。
 その時には、たまたま土取り業者が銅鐸を見つけて、全部取り出してしまった後なんですね。ですから、ここの大岩山のように、一部でも出土状況という事もなかなか分かりにくい状況でした。

銅鐸は、明治14年に14個、昭和37年に10個、小篠原の大岩山から発見された。その中には、高さ134.7センチ、重さ45.47キログラムと日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸もあった。
銅鐸は、明治14年に14個、昭和37年に10個、小篠原の大岩山から発見された。その中には、高さ134.7センチ、重さ45.47キログラムと日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸もあった。

ただ、取り上げた銅鐸が土建業者、その時の土取りは幸いな事に、ブルドーザーとか重機じゃなくて、ツルハシ1本でこつこつと1人、あるいは日によっては2人という事でやってましたから、細かい出方とかは、その人の記憶である程度復元できるという、そんな感じでした。
 ただ、銅鐸そのものは土取り業者の会社に集められた時に、県の教育委員会の文化財審議委員の先生というのが偉い先生ばかりでして、京都大学で考古学をされたタツオカイツゾウ先生とか末永雅雄先生とか、あるいはゴトウマコト先生という地元の大学の先生ですけれども、3人の方が県の文化財審議委員の中の考古担当の方でした。
 それだけ偉い先生ですから、現場に張りつくわけにはいかないで、私が学校をさぼって行ったら「ちょうどいいやつが来た」という感じで、土取りの人が掘った穴に、銅鐸を埋めた穴の形がまだ残っているんじゃないかというふうな事を調査をさせてもらいました。
 それが本当にラッキーでして、結局、なかなか元の状態は分からなかったんですけれども、銅鐸の中ですね、銅鐸は大体こんなふうに埋めてるんです。どういうわけか、鰭を寝かせているんではなくて、銅鐸を埋めた状態で見つかったというのが多分十数カ所ありますけれども、もともと全部この形です。桜ケ丘の場合もここの場合も、なかなか分からないんですが、こういうふうに埋めていると、土がここへ自然と入ってくるわけです。その土の入っていた痕跡が銅鐸の内側に、全部土のついた痕跡がありまして、それを桜ケ丘の銅鐸についても細かく全部見る事ができたというのは、非常に私の経験としては、銅鐸がどういうふうに埋められているかという事を自分の眼で確かめる事ができたという点で良かったなというふうに思っております。そんなふうな事がありました。
ただその時には、神戸市桜ケ丘というのは住宅開発業者が付けた土地の名前でして、本来は神様の岡と書いて「カミカ」というふうに地元では言っております。

出雲大社はかつてこの模型のような当時我が国一位の高層建築であった(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
出雲大社はかつてこの模型のような当時我が国一位の高層建築であった(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

 だから、今は神岡桜ケ丘というふうな言い方がだんだん広まってきているだろうと思いますけれども、正式報告書は「桜ケ丘」のままですけれども、カミカというふうに呼ばれております。
 そのあと、島根県の出雲で銅鐸が大量に見つかりましたけれども、あそこも神様の名前が土地に付いてまして、神庭荒神谷(カンバコウジンタニ)、神様の庭。その時に、もしかしたらこの大岩山にも神様地名があるんじゃないか。そう思って、地元の方にお願いして、「神様地名が大岩山近辺にないでしょうか」と、大岩山の銅鐸の出た地域ですね。それは残念ながら、私は見つける事ができませんでしたが、古い地名で江戸時代あたりもこう呼ばれておったとか、そういうものがあれば、どういうふうな。という事は、弥生時代、今から2000年ぐらい前、あるいは埋めた時期が1800年前としますと、その頃に神様をお祀りしていた、この土地に埋めたんだという伝説がずっと、その土地の名前として残っている可能性があるんではないかと、そんな恐ろしい事をちょっと思ったものですから、そのあと、銅鐸の出土地に神様の名前が付いているところというのを気にはしておりますけれども、そうはうまくいきませんね。
 1個あるいは2個出ているところも含めてであっても、ほとんど神様の地名が付いてないところが圧倒的に多いです。大量に見つかった場所というたら、神戸とここと出雲ですから、今のところ3カ所のうち2カ所に付いているという事にはなりますけれども、そう話は簡単に。今から1800年前の人が埋めた伝説、伝承がずっとそのあとの現在の地名まで残る、本当にそんな事があるんだろうかという疑問はおおいにあります。ありますけれども、不思議だなと今も思っております。

雲南市 加茂岩倉遺跡出土銅鐸/文化庁所蔵 国宝
雲南市 加茂岩倉遺跡出土銅鐸/文化庁所蔵 国宝

そういうふうな事もありましたし、私自身銅鐸との関係では、大阪に箕面というところがありますけれども、あそこで銅鐸が見つかったと新聞に出た次の日に現場に行きましたら、現場は山を削っている時に見つかった。その削った場所がそのままになってまして、銅鐸が埋められていた穴もおよそそのままで残ってまして、ブルドーザーで削ってますから、その周辺をうろうろ歩いたら銅鐸を拾いました。銅鐸の鰭の部分の30センチ、20センチくらいですかね、大きさのかけらを拾って、「へえ、こんな銅鐸を山で拾うなんていうのは、もうないだろうな」と思いながら、帰りに市役所に持って行って、「現場で拾ってきました」と持って行ったら、もっと喜んでくれるかと思ったら、「ああ、そのへんに置いといてください」と言われて、いささかがっかりして帰ってきましたけど、そんな事がありました。
 今日は、銅鐸がなぜ壊され、そしてその時期にほぼ卑弥呼が登場する。邪馬台国がどこにあるかというふうな事は、これは九州だ、近畿だという事で揉めておりますし、あるいは守山の伊勢遺跡で卑弥呼を擁立したという噂も聞きますけれども。              というふうな時と、弥生時代以来の神様を祀る用具である銅矛とか銅鐸が卑弥呼登場直前に消えているというふうに思っておりますので、そのへんの事について考えてみたいと思います。

左が滋賀県野洲市大岩山銅鐸。だんだんと大型で華美な装飾を施すようになる。(野洲市立銅鐸博物館)
左が滋賀県野洲市大岩山銅鐸。だんだんと大型で華美な装飾を施すようになる。(野洲市立銅鐸博物館)

まず最初に、資料の1番をご覧ください。
 銅鐸は、亡くなりました佐原真さんが丁寧な研究をされて、そして銅鐸そのものの形式学的、形によって年代順に整理されました。その中で、新しいタイプの銅鐸が、銅鐸の細い線が、これにはないですけれども、今ここの館内には展示されています大きな銅鐸には、幅が3ミリか4ミリぐらいの細い線が、でっぱった線がありまして、それを突線鈕式(トッセンチュウシキ)、とんがった線というふうに名前を付けられております。そういう銅鐸の変遷が1番、ここの展示室にも同じ図面がありますけれども、それをまず見ていただいて、上の段が三河から遠江の三遠式(サンエンシキ)というふうに呼ばれております銅鐸の形。下の行列が近畿式と呼ばれております、この近畿地方を中心に広まっている、銅鐸のどちらも最終段階の銅鐸です。そしてそれが突線鈕式というのが1番から5番か6番までずっと形式が分けられておりますけれども、その最後に近い突線鈕5式という5番目の段階で、三遠式と近畿式が統合された形に仕上がるという、そういうふうな形式の変化をたどっております。
 この大岩山の銅鐸の場合は、24個銅鐸が出ておるうち、近畿式が圧倒的に多くて、三遠式、三河遠江の地域のものが3個ある、この展示室に。しかし、それだけじゃなくて、近畿式の中にも三遠式、東海地域の銅鐸の特色をもった文様が取り込まれている。まさに、近畿地方と東海地方の銅鐸のタイプが、最終段階で統合されているものをもっている地域が、この野洲の地域だという事だろうと思います。それがなぜここに大量に銅鐸が埋められているのかという謎を解く、ひとつの鍵になるだろうと思います。そういうものが、この大岩山の地域にあるんだと。
 そして、ここの場合も、それから桜ケ丘でも出雲でも、銅鐸は完全な形で埋められておったんですけれども、それとは別に、銅鐸がかけらの状態で出てくるというのが沢山あります。これは、2番目のところに一覧表をつけておりますが、これは銅鐸をずっと研究されているノダマサオさん、今日も来ておられますけれども、詳しい事は御本人に聞いてください。沢山、銅鐸のかけらが出てきております。これは、銅鐸を壊しておると。なんでそんな銅鐸を壊したりするんだろうかと。九州の場合は銅矛ですが、それは神様を祀る大事な道具なわけです。それを壊すという事は、その神様を否定するという事であろうと思います。

愛知県清須市朝日遺跡出土 破片銅鐸(野洲市立銅鐸博物館蔵)
愛知県清須市朝日遺跡出土 破片銅鐸(野洲市立銅鐸博物館蔵)

そしたら、いつ壊したのか、あるいはいつ埋めたのかという事が問題になると思います。壊した銅鐸、これだけ沢山ありますけれども、壊した時期が分かるというのは、必ずしも多くないんですね。私は自分自身で発掘調査で銅鐸を掘った事が1回あるんですが、それは奈良県の纒向(マキムク)という遺跡で、今から38年ぐらい前。調査を始めてちょうど今年で40年になるんですけれども、あとでまた纒向の話は出てきますが、そこで飛鳥時代の川の中から銅鐸の飾り耳の部分の小さいかけらが出てきました。ですから、それは銅鐸を壊した時期は全く分かりません。

ただ、その飛鳥時代の川のすぐそばに、弥生時代最終段階、そして纒向1類と呼んだ3世紀直前段階、西暦にすると190年か200年ぐらいの、まさに卑弥呼が登場したであろう時期の遺構がすぐそばにありまして、本来はその穴のものだったんじゃないかというふうに予想しますけれども、確実には分かりません。

突線紐式銅鐸の変遷(野洲市立銅鐸博物館)
突線紐式銅鐸の変遷(野洲市立銅鐸博物館)
講師が書いた白板
講師が書いた白板

  というふうな事もありました。そのひとつの例で見ますと、資料3番に但馬の九田谷(くただに)というところの銅鐸のかけらをあげております。この銅鐸のかけらをまとめますと、3番の左側にあるような立派な突線鈕式の銅鐸になる。かけらは右端にあります大量のかけらとなって出てきている。それを本来の銅鐸の形にあてはめると、丹波の久田谷と書いてあるところにある銅鐸の形にかけらをあてはめてますけれども、こういう形であろうというふうに復元されております。
 先程紹介していただきましたように、兵庫県立考古博物館と奈良の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、両方へ私は週に2日ずつぐらい遊びに行ってるんですけれども、兵庫の博物館のほうで、去年になりますか、NHKが銅鐸を纒向の報道がらみで、纒向で銅鐸のかけらが出てきているから、纒向特集をやる時に、銅鐸を壊す実験をやりたいと。それ以前に、私は東大阪の鋳物屋さんにお願いして、銅鐸を。銅鐸には古いタイプと新しいタイプで成分が違うんですね。この突線鈕式というのはみな新しいタイプで、錫(すず)分が多い。それより古いやつは、同じ銅と錫と鉛ですけれども、成分の比率が違う。そうすると、壊す時も壊れ方が違うかもしれんと思って、東大阪の鋳物屋さんにお願いして、古い成分と新しい成分と2つのタイプの銅鐸を作ってもらって、壊してやっておりました。

野洲市立銅鐸博物館展示パネル
野洲市立銅鐸博物館展示パネル

 そういう事もあったから、あとでNHKがもう一遍やってくれという事で、今度は京都の鋳物屋さんで薄い銅鐸を作ってもらったんですが。銅鐸を壊す実験をやる時に困ったのは、以前、橿原考古学研究所を辞めて20年になるんですが、橿原の研究所におりました時に、銅鐸を造る実験は研究所の職員が20個ぐらい造っていろいろ研究してましたんで、一緒に富山の高岡の鋳物屋さんのところに行って造ってもらってたんですが、何回やっても、同じ成分で銅を流し込むと、厚みが3ミリか4ミリほどになってしまって、本物の銅鐸のような、1ミリとか2ミリの銅鐸には仕上がらない。ここの展示室にもありますけれども、銅鐸を造る時には外の型と、その中に内側にも型を造って、その隙間に銅を溶かしたやつを流し込むわけです。一番でかいやつは1メーター34センチですね。あるいは普通でも1メーターぐらいのやつに銅を流し込むわけです。だいたい、裾からてっぺんまで銅を流し込まないといけないわけですけれども、発掘調査で出てきている本物の銅鐸の成分でやると、あまり、溶けている金属の溶けたものがわりと硬くて、中まで行かない。神戸の桜ケ丘の銅鐸でも、真中あたりに穴が開いている銅鐸もありました。2、3センチの穴が開いて、そこを別の銅で鋳掛けして、後から繋いで文様を刻み込んでいるのも神戸の桜ケ丘にありました。そういう欠陥商品ができる。だからなかなか薄くできない。厚くすると、全体に通っていく。橿原研究所におった頃の銅鐸というのは、みんな厚みが本物より厚いですね。3ミリから4ミリぐらいある。そういう銅鐸です。ですから、叩き割る実験といっても、欠けているかけらの形とかが、本当に古代のものかどうかという実験には、ちょっとならないんですね。

錆びていない銅鐸-往時はこのように金色に輝いていた(野洲市立銅鐸博物館蔵)
錆びていない銅鐸-往時はこのように金色に輝いていた(野洲市立銅鐸博物館蔵)

大阪で造ってもらう時も、なかなか薄くできませんでした。NHKで京都で造った時は、京都の鋳物屋さんが成分をやはり変えて、薄く造るように造りました。ですから、そこで叩いた時は、うまいこと大きいのができましたし、割れましたけれども、やっぱり成分の違いというのは、これは今の技術で、弥生時代の本物の銅鐸の成分でやると、1ミリ、2ミリのものはできない、今の技術ではできないという事ですよ。2000年ほど前の人はやってるのに、現代の技術でできない。不思議な事ですけれども、事実としてできないんですね。
ですから、叩き割ってやった時に、それでもある程度分かった事は、3番の右側にありますような、銅鐸のかけらとほぼ似たような形のかけらになったという。銅鐸を叩き割って、カルタの大きさくらいの板のように割れます。大きいのは、銅鐸が幅が6、7センチくらいで、縦状によく割れました。その割れたやつのまん中を叩き割ると、3番の右側のような割れ口になりまして、やっぱりそうだったのかなというふうな事は思いましたけれども、ただそれは、成分を違えてますから、あまり直接の参考にはならないなと。なんとか同じ成分で薄くできないものかと思いますが、今のところ、それはできておりません。

荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

橿原考古学研究所の博物館に行かれた方もあるかと思いますけれども、あそこで時間に合わせて銅鐸の音が流れます。それは造った銅鐸で鳴らした音で、まるで弥生時代の鐘の響き、イメージですけれども、あれは残念ながら厚みが違いますから、あの音は弥生の鐘の音とは違うんですね。
 そしたら、本物の銅鐸を叩いたらいいのかもしれませんけれども、学生時代、今から50年ぐらい前でしょうか、学生時代に神戸に白鶴美術館がありますけれども、そこで兵庫県の銅鐸を集めた展覧会がありました。その時に本物の銅鐸を、本物のゼツ(舌)、銅の中に金属製の棒が出てきて、それを振って音を出す。その音がまさに弥生の音ですね。ただし、それは現代、錆びた状態で出てきたものの音ですから、これも本物の銅鐸の音ではあるけれども、錆びてない銅鐸の音とやっぱり違うでしょうね。そのへんがありますから。それでも私はあの時はなんだか、2000年前の響きを聞いたような気持で感動しましたけれども。今は国宝とか重要文化財になっているものを叩くわけにはいかないでしょうけれども、そういうふうな事が50数年前には聞く事ができました。
 そんなふうに実験を、なかば遊びみたいなものですが、やりましたが、分かった事と、なかなか分からない事がやっぱりあるなというふうに思います。
 女王卑弥呼との関係というのはまた後で触れたいと思いますけれども、卑弥呼という人は「魏志倭人伝」という文献によりますと、鬼道(キドウ)という新しい宗教をひっさげて登場した。それ以前は、倭国乱れる、世の中乱れておるというふうに言われておって、それを治めるために女性の王を、30の国々の王が集まって擁立したというふうに倭人伝には書かれていますので、その新しい宗教、鬼道という新しい宗教をもって登場した女王にとっては、それ以前の神様の道具類は邪魔なものですよね。というふうに、私は考えております。

大岩山銅鐸埋納推定模型(野洲市立銅鐸博物館蔵)
大岩山銅鐸埋納推定模型(野洲市立銅鐸博物館蔵)

そのひとつのシンボルが銅鐸であり、九州の場合は銅矛であろうという事です。そういう銅鐸の最後の扱われ方でありますけれども、5番とか6番に、埋められた状態の銅鐸の図面とか写真を挙げております。銅鐸を埋めたままの状態で見つかっている例が今18か13カ所あると思いますが、5番は徳島県の矢野というところの銅鐸です。これは私は調査中に現地の見学には行きましたけれども、直接自分で調査には関わっておりません。調査した徳島県の埋蔵文化財センターの人らにいろいろな事を聞きながら現場に行ったのですが、この図面にありますように、銅鐸を横にして、鰭を立てて埋めている。そして、その銅鐸の周りに厚みが3センチか4センチくらいの別の粘土状の土がありました。それから銅鐸の中にも満タン状態で土が入っている。だから、土を中に詰め込んで、そして外の土を巻いて、その外側を銅鐸と同じような形をした木の器を造って、それに入れて埋めている。というふうに、現場の土の状況から、埋められた状況を復元しております。
 今も徳島県の埋蔵文化財センターに行ってみますと、矢野の銅鐸の埋められた状態を復元したものが埋文センターの床下といいますか、上にガラスみたいなやつを張って、見れるようになっております。しかも、あそこの場合は、その埋めた周りに柱が何本かあって、覆いがあったというふうに説明されております。そんな例は他にないですね。

銅鐸に地霊や穀霊を宿らせる農耕儀礼がおこなわれた。(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
銅鐸に地霊や穀霊を宿らせる農耕儀礼がおこなわれた。(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)

 それから6番の場合は、愛知県の一宮八王子遺跡というとんでもない、愛知県の埋蔵文化財センターのアカツカさんなんかが、すごい建物、100数十メーターの長方形区画、弥生時代の最終段階ですね、長方形区画の中に高床の建物がある。その近くに銅鐸が逆さの状態で埋められていたというふうな状況で出てきております。これはきわめて異常な埋め方で、逆さの状態で埋めているというのはここと佐賀県にあるぐらいで、あとはみな横倒しなんですが、きわめて異常な埋め方をしているのも稀にはある。
 私が関わったといいますか、担当したわけではありませんが、銅鐸が埋められた状態で発掘調査された2番目が、奈良県の桜井市大福(ダイフク)の遺跡で見つかりました。それは状況5番の図面と同じです。同じように横倒しに埋められておりまして、弥生時代後期後半の方形周溝墓。ですから2世紀の後半の方形周溝墓の溝の中から銅鐸が出てきました。そして、溝の底のすれすれのところが、銅鐸の横に埋めたこの部分ですね。この部分が方形周溝墓の底すれすれのところに、そういう埋め方です。これは、弥生時代研究者、あるいは銅鐸の研究者にとってもきわめておかしな事でして、銅鐸というのは一つの弥生遺跡が1個ずつみんな銅鐸を持っているのではなくて、いくつかの村が共同で1個の銅鐸を持っているというのが、弥生時代研究者、あるいは銅鐸研究者のいわば定説といいますか、通説ですね。多くの人が、8割か9割、97パーセント、99パーセントかもしれませんけれども、の人がそんなふうに考えております。ですから銅鐸というのは個人所有のものではない。共同体の共同のお祭りの道具なんだ、村々の共同のお祭りの道具なんだという、そういうのが普通の考え方です。

それなのに、方形周溝墓という個人あるいは一家族の墓に銅鐸を埋めているという事はあり得ない。したがって、この大福銅鐸は、銅鐸が埋められたところに偶然、方形周溝墓を造ったにすぎないという解釈が、今そういうふうに言われています。

入れ子銅鐸。多産豊饒のシンボル的埋納の仕方。雲南市加茂岩倉遺跡(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
入れ子銅鐸。多産豊饒のシンボル的埋納の仕方。雲南市加茂岩倉遺跡(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

  調査したのは桜井市の教育委員会、桜井市の埋蔵文化財センターなんですけれども、私は現場へしょっちゅう、その当時は橿原の研究所におったんですけれども、銅鐸が出たという話を聞いて、そっちへ通いつめてまして、桜井市に出勤状態で、現場にずっとおりましたから、現場を見た。そして最後まで見届けた立場としては、とても偶然とは思えない。もし偶然だとしますと、埋めたちょうど銅鐸のこの鰭の高さすれすれに、偶然にも方形周溝墓を掘った人が、そこで方形周溝墓の溝の深さを偶然とめた。それからもう一つの偶然は、方形周溝墓の溝の方向と同じ方向、銅鐸を埋めておった銅鐸の方向と偶然、方形周溝墓の溝の方向が一致した。そういうふたつの偶然を考えないといけませんで、これは100パーセントないとはいえないだろうけれども、あまりにも偶然と言い過ぎだろうと。だから私は今も、これはお墓に銅鐸を持ち込んだというふうに思っております。
 そういう例は他にありません。ありませんから、「そんな事言ったってあれはおかしい」と多くの人が言っておりますけれども、私はやはり、最終段階に自分の墓に、銅鐸をもうすでに捨てないかんというふうな世の中になった。一部のごく限られた人は、自分の墓に銅鐸を持ち込むという事もあったんだな、というふうに思っております。
 東の方に行きますと、静岡県の西、あそこで大きさが15、6センチくらいの小さい銅鐸というか、あるいは銅鐸型銅製品というか、が弥生最終段階の小さな墓地から出てきている例がありますし、うんと離れますと、千葉県の草刈(クサカリ)遺跡でしたか、あの辺でも小さい銅鐸型銅製品、銅鐸とはいいにくい、銅鐸型銅製品が墓地から、墓そのものの中ではなくて、墓地からですけれども、出ている例があります。

荒神谷銅剣出土状況パネル(島根県立古代出雲歴史博物館)
荒神谷銅剣出土状況パネル(島根県立古代出雲歴史博物館)

そういう事もあるんで、大福の場合はやはり、個人が墓に持ち込んでいるきわめて珍しい例じゃないかなと。その時期は、方形周溝墓の時期が弥生の最終段階に、もう3世紀の時には近畿地方では庄内式(ショウナイシキ)土器というのがあるんですけれども。庄内式土器というのは、私は西暦の210年ぐらいから造られ始めたというふうに思っていますけれども、その直前段階の土器様式です。京都大学におられた小林行雄(コバヤシユキオ)さんは、弥生時代の土器を「1、2、3、4、5」というふうに5つの様式に分けておられますけれども、その5様式の最終段階直前に続いてくるのは庄内式という様式で、まさに女王卑弥呼の時代にほぼ一致してくるというふうになります。その直前段階に銅鐸が墓に持ち込まれている珍しい例だというふうに思っております。埋め方が5番目のようなものです。

この銅鐸が出た時に調査に行った桜井市の人から、研究所におった私のところに電話がありまして、電話ではいきなり「荒神谷が出た」という言い方をしました。「荒神谷が出た」と一瞬分からなかったんですが、「ああ、そうか、すぐに現場に行こう」と行ったんですが、たまたまその人と出雲の荒神谷遺跡の銅鐸出土地の見学に行って1月か2月ぐらいたった時ですから、あとで「なんであの時、電話で『荒神谷』みたいな変な言い方をしたんだ」と聞いたら、「横に新聞記者がおったから、暗号で伝えたんです」と。ともかく「行こうわい」と行ったんですが、その時にはすごく印象的な姿でしたけれども、銅鐸のここからこういう部分、軸に合わせて銅鐸を埋めますと、ここが一番高いんですね。

荒神谷遺跡銅剣埋納の儀式再現ジオラマ(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
荒神谷遺跡銅剣埋納の儀式再現ジオラマ(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

ここから上くらいだけ見えて。私が最初、大福に行った時に見たのはここだけの部分です。その段階で、桜井市の萩原という人ですけれども、萩原さんはいきなり橿原研究所へ電話してきて「荒神谷が出た」。
現地に行った時に、これが銅鐸であるというのは、「自分でいきなりそれを掘り当てたんか」と聞いたら、「いや、方形周溝墓の写真を撮るために溝の底を掃除していたおばさんが見つけたんだ」と。「そのおばさんは最初になんて言ったんだ。銅鐸と言ったか」と聞いたら、さすがに銅鐸とは言わなかったようですね。「ハリガネか何か出た」。その時に、よく調査をしている作業員の方が、えらいものが出たという事を、周りをガンガン掘らずに、すぐ調査を担当をしている萩原さんに「先生、こんな変なもの」というふうに言ってくれてよかったなと思います。ですから、その段階で私は現地を見させてもらって、そして銅鐸が埋められているように、ここに土層を見るための畔を十文字に残して、銅鐸の埋められている状態をきっちり調査する事ができたというのは、最初に見つけたそのおばさんの功績だと思いますね。

銅鐸の変遷-近畿式銅鐸(左:大阪府西浦遺跡)と三遠式銅鐸(右:静岡県西の谷遺跡)
銅鐸の変遷-近畿式銅鐸(左:大阪府西浦遺跡)と三遠式銅鐸(右:静岡県西の谷遺跡)

昔の思い出話みたいになりますが、そのあとこれは、沢山の研究者あるいは一般の方にも現場を見てもらう必要がある。日本中で銅鐸が埋もれたままの状態で沢山の人に見てもらう機会がないわけです。それより前に出雲の荒神谷がありましたけれども、荒神谷もぼんぼん道路工事で掘り出された跡で、一部残っていたのは数個だけです。それに対して、この大福の銅鐸というのは発掘調査で出てきているんですよね。発掘調査で方形周溝墓が出てきて、そこの溝の底から銅鐸が出てきているという、これはきわめて珍しい例で、埋もれた状態の銅鐸が発掘調査で出たというのは、まったく初めてです。
それで担当の人と一緒に、直接関係もないのに、桜井の市長さんのところに行って、「これこれこういう事なんで、これを全国の人に見てもらう機会を作ってほしい。そうすると、必ずマスコミの人が押し掛けてきて、大変な状況になる。しかし、もしこれを今マスコミの人に言わないで全国の人に見てもらおうとすると、必ずマスコミに情報が伝わる。そうすると、丁寧な調査ができなくなる。そしたら、いっその事、今、市長さん、マスコミに言ってもらえませんか。市からマスコミの人に『銅鐸が出てる』という事を、端っこが出てる段階で言って、公にして、そのかわり、報道は1月でも2月でも待って下さいという事を、マスコミの人と約束してもらえませんでしょうか」と。そしたら市長さんが「そうしましょう」と言って、あれは桜井の記者クラブの人もよく分かってくれたと思いますね。ですから、日々、新聞社とかテレビの人が横におる状態で、桜井の人がずっとそのあと1月あまり、調査をじっくりやる事ができて、そしてある程度調査が終わって、銅鐸が埋まったままの状態で、研究者に広く連絡をとって、現地を見てもらう事ができました。

ですから、いろんな銅鐸が、方形周溝墓に伴うものか、それ以前からあった状態のところに偶然お墓を造ったのかという事について、沢山の意見の違いはありますけれども、それでもやはり、現地を見てもらったうえでの意見の違いだから、やっぱり良かったんじゃないかなというふうに今も思っております。

景初三年の名が入った銅鏡。島根県雲南市神原神社古墳出土 文化庁所蔵重要文化財(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
景初三年の名が入った銅鏡。島根県雲南市神原神社古墳出土 文化庁所蔵重要文化財(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

そういう偶然に、私自身が出合う事ができたというのも、これは運が良かったなと思います。
 またちょっと余計な事を思い出しましたけれども、ちょうどその時に、発掘現場に銅鐸の現場に来ておった新聞記者の人が、「石野さん、こんなところに毎日来てていいのか」「なんで?」と聞いたら、「今、斑鳩の方でなんか大変な事が起こってますよ」。私は斑鳩で藤ノ木古墳の調査が始まっている事は知っていましたが、橿原の研究所の調査ですから当然知っていましたが、あれは中期古墳であって、どこにでもあるような粘土郭か何かでも出てくるのだろうと思ってまして、だから「何が起こってるんですか」と聞いたら、どうも、特定テレビ会社が全国中継をやる準備をしている。なんだろうと思って、早速現場に行ってみたら、とんでもないでっかい横穴石室が天井に穴が開いて、中が見えて、まっかっかの石棺が見えたという状況で、いきなり聖徳太子のおじさん、聖徳太子の嫁さんのお父さんの墓だと、そういう。まだ中も掘ってないのに、いきなりそこに埋められているのが、法隆寺のすぐそばでしたから。というふうなのと全く同じ時期でした。

卑弥呼の銅鏡か?(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
卑弥呼の銅鏡か?(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

これはとんでもない、こんなもの報道されたら、調査している橿原の恥になるんで。あれは町に頼まれて研究所の職員が行っとった調査ですけれども、すぐ町長さんのところに行って、「発表は調査がめどがたつまで待ってもらえませんか」という事をお願いして、幸いに待ってもらえました。だから、この大福の銅鐸の調査というのに、めったにない事だと思って、頼まれもせんのに、一所懸命桜井市に通ってたら、いつのまにか自分のとこの足下に火がついていたという、そんな事もありました。両方とも無事、なんとか納まりましたけれども。
 銅鐸に戻りますと、4番をご覧ください。
 4番は鳥取県の、今は鳥取市になりましたが、青谷町の青谷上寺地(アオヤカミジチ)という遺跡で、弥生時代のすごい骨角製品とか木製品とかが出て、有名なのが、脳みそが残ったままの状態の頭蓋骨が残っているというので非常に有名になりました。あの遺跡で、銅鐸のかけら、4番の下の右側の写真が青谷上寺地で出た銅鐸の裾の部分のかけらです。その裾の部分に、マジックで少し太くなぞっているのが、マークが刻まれておりました。このマークは、4番の上の鏡の写真、大きさが直径5センチ程度の小さい鏡ですけれども、これを青谷上寺地で出た鏡ですが、その鏡の文様と全く一緒。内行花文鏡(ナイコウカモンキョウ)と呼ばれていますが、こういう文様が刻まれていました

 

葬送用の不思議な土器。子持ち壺。出雲市上塩冶築山古墳(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
葬送用の不思議な土器。子持ち壺。出雲市上塩冶築山古墳(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

これはきわめて示唆的なといいますか、意味のある事じゃないかなと。これは報告書がすでに出ていますが、私は現地でこのかけらとか見せてもらって思ったのは、壊れた、あるいは壊した銅鐸のかけらに鏡のマークがある。よく、銅鐸の後、銅鐸祭祀から銅鏡の祭祀。銅鐸というのは、土地の神様を祀る用具であると。弥生時代の人が土地の神様を祀るために銅鐸を造ってお祀りしていた。鏡というのは、天の神様を祀る用具であって、弥生時代の信仰と古墳時代の信仰というのは全く天と地の差があるという。これは、文化人類学のニシナショウエイという先生がそういう論文を、「チョウセンガコウ」という雑誌に最初に書かれたのが一番早い段階ですが、それと同じ趣旨の論文を、神戸の桜ケ丘銅鐸の報告書にも書いていただきまして、たまたまその編集を担当したものですから、覚えておったんですけれども、銅鐸は土地の神様、鏡は天の神様というふうに、文化人類学の分野からは考えられるという有名な論文があります。
 それを、まさに一つの銅鐸のかけらに両方入っている。これは、銅鐸を造る職人が新しい時代に鏡作りの職人に切り替わっていったという事になるんだろうかと。これは、普通はなかなかそうは言えないんですよね。思想的に全く違うもの、いわば宗教改革が起こっているわけですから、古い神様のシンボルを造っている人が、新しい神様が来たらそっちへさっさと移って行くみたいな、そんな事はあり得ないというのが普通の考え方だと思いますが、どうも、この青谷上寺地では、もしかしたらそういう事が起こっているんだろうか。あるいは、これは単なる鏡のマークとは言えない、偶然、こんなマークが刻まれているとしか言いようがないんだろうか。というような象徴的な技術が、この4番の同じ遺跡で見つかった銅鐸のかけらと、同じ遺跡で見つかった内行花文鏡であります。

鏡作坐天照御魂(かがみつくりにいますあまてるみたま)神社(鏡作神社)本殿。奈良県磯城郡田原本町鎮座。天照國照彦天火明命 (あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)=ニギハヤヒ)・石凝姥命・天児屋根命を祭神とする延喜式内社で、古来から鏡鋳造の神として信仰されました。この地は「倭名抄」にその名がある古代の鏡作集団がいたとされる鏡作郷に比定され、神社の神宝として「三神二獣鏡」が伝えられています。これ
鏡作坐天照御魂(かがみつくりにいますあまてるみたま)神社(鏡作神社)本殿。奈良県磯城郡田原本町鎮座。天照國照彦天火明命 (あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)=ニギハヤヒ)・石凝姥命・天児屋根命を祭神とする延喜式内社で、古来から鏡鋳造の神として信仰されました。この地は「倭名抄」にその名がある古代の鏡作集団がいたとされる鏡作郷に比定され、神社の神宝として「三神二獣鏡」が伝えられています。これは三角縁神獣鏡の外区が欠落したものと考えられます。

これはなかなか、解答はすぐには出ませんけれども、事実としてこういうものが同じ遺跡で出ている。年代はもう弥生終末、事によると3世紀にかかるという、そういう時期になりますんで、非常にあり得る。銅鐸と銅鏡、普通は弥生時代の銅鐸から古墳時代の銅鏡、三角縁神獣鏡というふうな人もおりますけれども、卑弥呼の時代は三角縁神獣鏡がまだなくて、内行花文鏡とか方格規矩鏡とか、あるいは三角縁画文帯神獣鏡ですね、鏡の名前も漢字もややこしいですけど、そういうふうな移り変わりの時期を象徴するようなものが、鳥取県で見つかっております。
 という事で、纒向の話のほうに入っていきたいと思いますが、纒向についてはたまたま今からちょうど40年前に、5年半ほど私が調査を担当しておりました。その頃の奈良県桜井市纒向遺跡というのは全然有名ではありませんで、「纒向」という遺跡の名前もありませんでして、大きく太い田圃と書く「太田」というところに弥生土器が落ちてるという事が、1種類の雑誌に紹介されているくらいで、調査もされておりませんでした。というぐらいの遺跡で、今から40年前でしたら、奈良県で考古学をやっている人間、橿原研究所の人とか、あるいは奈良国立文化財研究所の人で、合わせて100人おったとして、太田遺跡を知っている人というのは多分10人おるかおらんかでしょうね、きっと。そういう時にたまたま、この桜井市太田のところで雇用促進事業団という、当時、九州の三池炭鉱なんかがどんどん廃山になっていった。そういう炭鉱で働いていた人たちが全国に再就職して、新しい建物に入ってもらって、再就職を受け入れていくという事が各県で行なわれたようでして、そのひとつが、この纒向の地にアパートが2棟ほどできるという事で、調査を始める事になりました。

なったんですけれども、これもまた余計な事ですが、その時は奈良県遺跡地図の全紙になる1枚物の奈良盆地全体の地図に遺跡が入ってる程度の地図なんですけれども、その地図から太田遺跡の範囲は書いてあったんですけれども、遺跡の範囲から100数十メーター離れたところにアパートを建てる予定地がありました。ですから、役所としてはそこを掘る必要がないんですね。文化財として認定している地図から離れてますから、事前発掘の必要は行政的にはありません。

 しかし、私はそれ以前は兵庫県の教育委員会におったんですけれども、兵庫県の教育委員会から奈良へ移って2年目の時で、1年目ですかね、どうしても奈良県で集落遺跡の調査をしたい。これはちょっと行政の人間としてはよこしまな事なんですけれども、どうしても奈良の弥生の集落遺跡を調査したいという思いで奈良へ移ったという事もありまして、たまたまその時私は橿原から当番で県庁勤務だったんです。2年ないし3年行くという事で、結果4年ほどおったんですけれども、県庁勤務の時で、そういう開発があるという事をたまたま知りまして、現地に行ってみたら、どうも太田遺跡にきわめて近い。地形的にはつながっているかもしれないと思ったもんですから、アパートを建てる土木課に行って、「これこれこういう事で、文化財保護法という法律によると、工事中にモノが出てきたら、ただちに工事を中止しなさいと書いてますから、そうなったら大変でしょうから、事前に試掘調査をしたほうがいいと思いますよ」と。一応言ってる事は正しいですけどね、本心はちょっと別のところにあったんですね。

というふうな事で説明して、そしたら「いくらいるんだ」と言われて、「まあ、500万くらいで多分終わると思います」という事で調査を始めたんですけれども、なんにも出ませんでした。出てきたのは、飛鳥時代の川と古墳時代の川が出てきました。ところが、飛鳥時代の川が出た事をすごく喜んでくれた万葉研究者が地元におられました。私は万葉集をよう知らんので、その人に現地に来てもらって教えてもらいましたら、纒向地域には柿本人麻呂の万葉歌が5首か6首ある。そこに詠われている纒向川のせせらぎを聞きながら、弓月嶽が見えるという歌の情景が、現在、奈良県の箸墓古墳のそばを流れているのも纒向川なんですけれども、その場所からは歌の情景が全く見えてこない。しかし、発掘調査で出てきた飛鳥時代の川だったらぴったりその情景に合うという事を教えてくれまして、私は喜び勇んで「万葉の川現わる」という発表をしました。奈良版だけでしたが、小さく載りました。
 それで、次の年から発掘ができる事になったわけです。その次の年から、まさに邪馬台国時代の川とか小さな建物跡とか、小さな土器が沢山入った穴が30個ほど見つかりまして、調査が現在も続くという事で、500万がもしかしたら5000万か1億か2億になってるかもしれませんけれども、というような事がありました。
 だから今、去年、一昨年、纒向で初めてこれからお話します立派な建物が出てきた時に、私は桜井市長さんに
(テープ交換)
 というのが纒向なんですが、7番の地図をご覧ください。

奈良県桜井市大福遺跡出土銅鐸(左)と徳島市名東遺跡出土銅鐸(右)静岡県浜松市新都田の前原VIII遺跡より出土した三遠式銅鐸(下)(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
奈良県桜井市大福遺跡出土銅鐸(左)と徳島市名東遺跡出土銅鐸(右)静岡県浜松市新都田の前原VIII遺跡より出土した三遠式銅鐸(下)(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)

この中で、いくつか丸を囲んでいますが、地図の一番上にある丸は大和古墳群の中の天理市にあります西殿塚古墳ですね。3世紀の終わりぐらい、200メーターぐらい掘って。その次の丸が、いわゆる宮内庁が崇神天皇陵と呼んでいる行燈山古墳。その次の丸が、景行天皇陵と言われております渋谷向山古墳で300メーター。いずれも、3世紀から4世紀にかけての大きな大王墓です。真ん中辺に囲んでおりますのが、小さく倭迹迹日百襲姫神と書いていますが、宮内庁がそういうふうに呼んでおります、ご飯を食べる箸の墓、日本書紀に箸墓と出ております墓。大きさが280メーターあります。邪馬台国大和説の多くの人が、これが卑弥呼の墓だというふうに呼んでおります。
 邪馬台国が九州だったら、邪馬台国とは何の関係もない、そして九州の王墓よりもはるかにでかい280メーターの王墓を造るような勢力が大和にあったという事が証明できる古墳です。年代は、古く見る人で260年、私は280か290年だと思っていますけれども、そういうでっかい墓です。
 この地域の右側に桜井市と書いてある左側の丸が、三輪山という大和の神様がいる山だと言われている山のてっぺんです。その丸の左側、3センチくらいのところに小さい字で「大きな神の神社」、これが三輪山を祀る神社で大神神社があります。

鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)。奈良県磯城郡田原本町小阪鎮座。天麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)。この神は多度大社などに祀られる天目一箇命と同神とされる。
鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)。奈良県磯城郡田原本町小阪鎮座。天麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)。この神は多度大社などに祀られる天目一箇命と同神とされる。

それからこの地図の一番下に、物差しのところに前方後円の形を書いているのが桜井茶臼山(サクライチャウスヤマ)で、橿原考古学研究所の一昨年かその前ですか、2、3年前の調査で鏡が81面以上あるという事が改めて分かった桜井茶臼山古墳です。
 この丸とは別に黒丸を3カ所、4カ所入れておりますのが、三輪山の麓で銅鐸のかけらが出てきている場所です。その一番上の丸、この地図のまん中へんにある「太田」と書いてあるところが、もともと太田遺跡と呼ばれていた纒向遺跡の中心地に位置されます。そこから銅鐸のかけらが出てきたのが、10番の地図の左上に載せている、飾りに突線鈕式銅鐸の飾りの部分です。それが飛鳥時代の川跡から出てきました。それから、左下のところに黒丸が2つありますけれども、これが大福のかけらが出てきたところです。ここに大福じゃなくて六福と書いてあります。国土地理院も間違う事あるのかな。
 大福ですが、大福遺跡と大福北遺跡と呼ばれておりますが。それからもう1つ、三輪山のこの地図の右下のところの黒丸が脇本という地名ですが、雄略天皇の宮殿がある朝倉宮(アサクラノミヤ)の包蔵地ですけれども、そこで橿原考古学研究所が数年朝倉前に調査しまして、銅鐸のかけらが出てきております。

それぞれ、この地域で銅鐸のかけら、三輪山の麓で4カ所から銅鐸のかけらが出てきております。その中でも大福北遺跡は、銅鐸のかけらと鞴(ふいご)の羽口※。銅鐸を粘土で造った筒状の銅製品ですね。鍛冶屋さんが鞴で風を送って火をおこす、その道具ですけれども、それが一緒に出ております。という事は、銅鐸を叩き壊してなにかに使う、再生産しておった、リサイクルしておった場所だという事になります。脇本も銅鐸の鞴の羽口が出てきておりまして、どうも、この岩山の麓の人たちというのはきわめて、なんといいますか、新しい時代を迎えるにあたって、よく言えばきわめて合理的な。もう時代は新しくなったのだ。明治維新の時に廃仏毀釈というのがあったんですね。それは、新しく天皇を中心とする新しい近代国家を作ろうという時に、昔ながらのお寺の信仰だけでは近代国家にはできない。

※羽口(はぐち)とは溶鉱炉などに熱を吹き込んだり溶解した銅を取り出す口

多度大社別宮一目連神社。御祭神の「天目一箇命」は、御本宮・天津彦根命の御子神であり、伊勢の天照大御神の御孫神にあたります。古書(古語拾遺)では、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになった際、刀や斧などを作って活躍された神として伝えられており、このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。毎年11月8日には、「ふいご祭り」というお祭りが斎行され、桑名近辺の会社はもとより全国の関連業者の方々が参拝に訪れます。

大神神社 奈良県桜井市鎮座。纏向遺跡付近にある日本最古の大社。大物主大神を主祭神としニギハヤヒとされる。
大神神社 奈良県桜井市鎮座。纏向遺跡付近にある日本最古の大社。大物主大神を主祭神としニギハヤヒとされる。

だから仏さん、お寺をみんな潰してしまえというような、簡単にいうと、そんな事だったんでしょうか。その時に全国のお寺がかなり壊された。奈良の興福寺の五重塔が5円で売り出しに出たとかという記録があるようですけれども、そういう時代の中で、私もきっちり調べたわけではありませんけれども、地域によっては、仏さんを壊すなんて事はとてもできないと。ひそかに、池の中に仏さんを沈めるとか、穴を掘って埋めるとかというふうな事で、仏さんを壊すような事はしない村々も沢山あったそうです。そして、ほとぼりが冷めた頃に、明治の中頃か後半になって、その仏さんを改めて掘り出して祀るようになったという村が沢山あるんだそうでして、私は人情としてはそのほうが分かりやすいですね。やっぱり、そらそうだろうなという。
 そういうような事が後の時代にもあるのに、この三輪山の麓の人たちというのは、まあ具体的には纒向の人間ですね、纒向にかつておった人たちというのはきわめてえげつない。昨日まで信仰しておった神様を祀るという、清らかな道具である銅鐸を叩き潰す。叩き潰すだけではなくて、別なものに溶かして造り変えているという、とんでもない人たちがおったんだなぁ。たまたま自分が5年間ほど調査を担当したこの遺跡の人間というのは、とんでもない。よく言えば非常に合理的ですね。

大神神社 「拝殿」は4代将軍徳川家綱の寄進により寛文4年(1664年)に造営したものとされている。「拝殿」、「三つ鳥居」とも、国の重要文化財に指定されている。
大神神社 「拝殿」は4代将軍徳川家綱の寄進により寛文4年(1664年)に造営したものとされている。「拝殿」、「三つ鳥居」とも、国の重要文化財に指定されている。

そうすると、私はずいぶん昔、奈良盆地の中心的な弥生集落である唐古・鍵遺跡の人たちが、纒向遺跡に移って来て新しい都を作ったというふうな論文を書いた事があるんですけれども、本当にもしそうだとすると、大和の弥生人というのは非常に合理的な精神に頭を切り替えて、新しい時代に入って行ったと言えるし、事によったら、この纒向の初期の段階によそから集団渡来、別な人間が来ているんだろうかという事も考える必要があるんだろうかという事も思うんですけれども、しかし土器からいうとそうではないんですね。纒向遺跡の当初の土器は弥生様式の最末期の土器でして、まだ庄内式土器が出てない段階です。庄内式土器というのは、厚みの薄い新しいタイプの土器なんですけれども、それがない唐古の5様式最終末段階の土器が大量に出てきますんで、どうしてもやはり、大和の人間としか思えない。
 ただ、事によると、よその地域の人間が、トップグループだけがやってきて、そして、地元の開発は全部地元の人間にやらせたというふうに解釈すれば、よそから来たというと、邪馬台国東遷説みたいな話になるんですけれども、そういうふうな事もあるかもしれません。
 ただ、事実としては、2世紀末の段階で、三輪山麓で大変革が起こっている。弥生の神を叩き壊し、新しい信仰に切り替わっていっているというのは事実であります。
 そういう時に、この10番のような新しい建物、2年前に見つかりました纒向の王様の宮殿というふうに呼んでもいいと思いますけれども、東西に並ぶ日本列島最大の建物が、この10番の建物、一番右端が最大なんですけれども、出てきております。

荒神谷遺跡銅剣(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないよう
荒神谷遺跡銅剣(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

この建物の柱の大きさというのは、だいたい弥生時代の高床建物の柱穴というのは丸みをおびております。それなのに、この纒向の建物の柱は四角です。1メーター四方ぐらいの四角い柱穴で、そこに柱を埋め込んでいます。これは飛鳥時代の建物の柱と同じ彫り方ですね。ですから、私はこの調査を桜井市でやっていたんですけれども、現地へしょっちゅう見に行って、なんでこの建物が古いという事が言えるのかという事を、かなりしつこく聞きました。どう見ても、飛鳥時代以降の柱の彫り方ですから、3世紀なんていう事は信用できない。
 そしたら、たまたま幅1メートルくらいの溝が柱穴を2カ所壊しておりまして、その幅1メーターの溝の中の土器が、いわゆる庄内式の土器。纒向2類あるいは3類と呼んでいる3世紀前半の土器が溝に沢山入っておりまして、その溝によって壊されているという事は、その建物は3世紀中頃かその前という事になりますので、まさに卑弥呼の時代の大型建物が東西に一直線に並んでいるという事が証明できたんだなという事を思いました。
 そういう建物が出てくる直前の段階に、纒向周辺で、今分かっているだけで4カ所にわたって弥生以来の銅鐸、神様の用具が壊され、そしてリサイクルされている。潰されて、別のモノに造り変えられていくという、そういうとんでもない事が起こっているんだなという事かと思います。
 これは、邪馬台国が九州にあったとしても、同じ時期に大和では、弥生の神を否定し、新しい神に切り替えるという事件が起こっているという事だと思います。それは、近畿だけじゃなくて、九州でもどうもそうなんじゃないのかなと。11、12、13をご覧ください。

銅鐸を埋める(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
銅鐸を埋める(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
加茂岩倉銅鐸出土状況(島根県立古代出雲歴史博物館展示パネル)
加茂岩倉銅鐸出土状況(島根県立古代出雲歴史博物館展示パネル)

 12番は、博多に新幹線を造る時に、福岡市の博多駅からちょっと離れたところの引き込み線のところの発掘調査で出てきた銅矛のかけらです。銅矛というのは、弥生時代に九州の神様を祀る大事な道具で、福岡県から銅矛づくりの鋳型なども見つかっておりますし、対馬、壱岐そして福岡、それから四国の西の端から土佐まで含めた銅矛文化圏というのが、弥生の最終段階まで神様を祀る道具として使われていたものです。それが10数センチのかけらの状態で出てきました。それが一部ひんまがっておりまして、かなり強引に壊されているなと。
 それから13番、これは銅矛の埋めている状態の模式図ですけれども、佐賀県の検見谷ですけれども、銅矛が数本、やっぱり立ててるんですよね。同じように、銅矛をこういうふうに立てて並べて埋めているという。銅鐸を横に立てて埋めている、銅矛も横に立てて埋めている。だから、銅鐸文化圏と銅矛文化圏は全然なんか、神様の思想が違うように思われているけれども、扱いは同じじゃないかな。釣鐘のようなものと剣のようなもので、形は全く違うんだけれども、神様を土中に納める時のものの考え方に共通性がある。弥生時代最終段階、卑弥呼が登場する直前の九州と近畿というのは、必ずしも対立的ではないんじゃないのかな、というふうな事を思うきっかけが、銅矛の横にして立てて埋めるという埋め方です。

そして同時に、近畿で銅鐸を叩き壊している時に、九州でも銅矛を叩き壊している。叩き壊している例は、銅矛に関しては1例しかないんですが、これから見つかってくる可能性があるんじゃないのかなと。同時期に、近畿と九州で宗教改革が起こっている、こういう事じゃないかなと。

銅鐸文化圏の広がり(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
銅鐸文化圏の広がり(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)

 これはちょっと、銅鐸と銅矛の問題から離れますが、似たようなといいますか、九州と近畿が本当に仲が悪かったんだろうか。邪馬台国問題だと九州か近畿かでよう揉めているんで、仲が悪いように錯覚してしまうんですけれども、仲が悪いのは現代の邪馬台国研究者の仲が悪いのであって、弥生時代最終段階の人はそうじゃなかったんじゃないかという証拠が、ちらりと纒向で出てきました。纒向で勝山古墳というのがあるんですが、その近くで、鞴の羽口が出てきまして、かまぼこ型をしているんです。
普通、鞴の羽口というのはほぼ円形です。そうじゃなくて、こういう平べったいかまぼこ型の鞴の羽口というのは筑紫型、福岡の北部の特色ある羽口で、愛媛大学の村上さんという鉄を研究している人がそういう事を指摘されているんですが、このタイプの筑紫型の鞴の羽口が纒向で出てきております。
これは、鞴の羽口の形が違うという事は、鉄器を造る時の炉の構造が違うという事だと思います。丸い羽口かかまぼこ型かというのは、炉の構造が違うだろう。そうすると、纒向に筑紫と福岡と同じ形の炉の構造が来ている。そういう技術が纒向に伝えられているという事は、これは筑紫と大和が仲が悪かったら、そんな事にはならんだろうと。そうすると、新しい技術を纒向がもらっている事になります。同じ事は、福井県にも同じタイプのものがあるんだそうで、筑紫型の鉄器の加工技術というのがけっこう広がっていっている。その一部が纒向にも大和にも来ているという事になりますと、邪馬台国問題を考える時に、九州と近畿を対立的に考えないほうがいいんじゃないのかなと。邪馬台国がどっちにあったとしても、これは文化交流がどうもあったんじゃないのかなというふうに考えたほうがいいんじゃないのかなというふうに思います。

銅鐸から銅鏡へ(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)
銅鐸から銅鏡へ(野洲市立銅鐸博物館展示パネル)

最後になりますが、14番、15番というのは、これはどう解釈するか非常に微妙だと思いますが、14番は有名な銅矛文化圏と銅鐸文化圏の地図で、瀬戸内のまん中へんを境にして、そして、銅鐸、銅矛文化圏が分かれる。最近、10数年前に九州でも銅鐸の古いタイプのものが出ましたから、必ずしも銅鐸文化圏と銅矛文化圏はないというふうに言われたりもしますが、それはまあ初期の話であって、最終段階の銅鐸、銅矛の新しい段階には、やはり歴然と銅矛文化圏と銅鐸文化圏がこのようにあります。

そして、そのあと15番のほうの地図は、前方後円墳と前方後方墳の違いですけれども、私はついしゃべっていると、前方後円墳と言ってしまうんですが、論文ではそんな名前はやめましょうという事を言ってまして。なんでかというと、前方後円という事は、前が四角で後ろが丸という意味ですよね。でもあの古墳の形で、どっちが前か後ろかは分かりません。事実として、前後ろ入り口が分かっているのは、みんなくびれです。富山県の古墳も奈良の古墳も宮崎の古墳も、今のところ、私が知っているのはまだせいぜい5、6例ですけれども、出入り口が発掘で確認されているのはみんな、横です。ですから、四角い方が前という表明は考古学的にはありませんので、あの名前は江戸時代の人がつけたのを未だに使っているのはおかしいと。だから長い突起がついた円墳を省略して「長突円墳」と呼びましょうと十数年言ってるんですが、全然、流行りません(笑)。自分でも前方後円墳と言ってるんですからしょうがないですけど。

三角縁三神五獣鏡。古冨波山古墳出土(野洲市立銅鐸博物館蔵)
三角縁三神五獣鏡。古冨波山古墳出土(野洲市立銅鐸博物館蔵)

  四角の方もそうです。四角に突起が付いているんですから「長突方墳」と言えばいいというふうに思いますが、その丸い墓。円丘と方丘を中心にした墓の境目がまさに近畿地方だというのが、15番の図です。
 その境にあるのが、この近江なんですね。近江は、初期の墓の形は四角ですね。東近江市能登川町でしたか、あそこの神郷亀塚古墳というのは、3世紀のまさに邪馬台国の時代で四角の出土があります。大きさが40メーターぐらいでしたかね。年代は3世紀に、新しく見る人でも3世紀の終わりでしょうね。私はやはり、3世紀の中頃くらいまではいくんではないかと思いますが。
 それから、元高月町、今は長浜市高月町の古保利古墳。すごい古墳群が高月にありますが、1キロ、1300メーターぐらいに130ほどの古墳がずらっと並ぶ、とんでもない、国の史跡になりましたが、あの一角にある古保利古墳というのも四角にでっぱりが付く妙なものが、あの古墳の初期の墓で、あれも邪馬台国時代ですね。ただ、新旭町でしたか、あそこは高島郡地域の古墳は熊野本古墳群が丸にでっぱりが付くのが3世紀の終わりから4世紀の初めくらいにあって、琵琶湖周辺が邪馬台国の時代から初期の大和政権の時代にかけて、四角が中心の地域と丸が中心の地域が、どうも琵琶湖周辺にあるんじゃないのかなというふうに思います。

まさに銅鐸博物館。大岩山銅鐸の山(野洲市立銅鐸博物館蔵)
まさに銅鐸博物館。大岩山銅鐸の山(野洲市立銅鐸博物館蔵)

 そしてその地域で、この大岩山に三遠式という、東海地方の特色を持った銅鐸と、近畿式という奈良、大阪を中心に分布する銅鐸の両方が埋められているという事。まさに、西日本的な文化と東日本的な文化が統合されているというか、一つの鍵を握っている。近江というところは、信長の時代の鍵を握るというふうによく言われますが、なにかそういう弥生から古墳時代にかけての鍵を握る文化、政治勢力というのが、この地域にどうもあったんじゃないのかなというふうな事を感じるのが、この大岩山のひとつの見方ではないか。
 そうすると、なぜ大岩山なんだろうかと。東海道新幹線のJRルートだったら、米原あたりでもいいんですよね。琵琶湖の周辺で東海地方、名古屋、岐阜ともつながる琵琶湖周辺で名古屋、岐阜ともつながりやすいところというと、米原あたりかもしれません。江戸時代のルートでいうとそうなんだろうと思いますけれども、でもそうじゃなくて、なんでこの野洲の地域なのか。そうすると、先程も館長さんにいろいろお話をお聞きしたんですけれども、守山あたりの最近国の遺跡になりました伊勢遺跡。大型の建物が、直径200メーターくらいでしたか、サークル状にずらりと並ぶというふうな、あんなとんでもない町づくりをしている。あそこも元は野洲郡の地域になるんだそうでして、そうすると、この三上山をきれいに望める地域、邪馬台国の時代というのは私は古墳時代だと思っていますが、弥生の末から古墳時代の初めにかけて野洲の地域というのが、なんかえらいとこなんだなというふうな、別にここに来たからもちあげるわけではなくて、ほんとにえらい地域なんだなというふうな事を思いながら終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。(拍手)

志谷奥遺跡銅剣・銅鐸出土状況パネル(島根県立古代出雲歴史博物館)島根県八束郡鹿島町佐陀本郷に所在する弥生時代の青銅器出土地。1972年狭隘な谷間の東斜面から銅鐸口と銅剣本が一括発見された。75年鹿島町教育委員会の調査で,斜面を簡単に掘りくぼめた径45cm×55cm,深さ30cmの不整形な埋納坑が検出され,この中に銅鐸2口を逆さまに斜めにねかせ,その上に切先を下方に向け銅剣6本を束ねた状態で納めていたことが判明した。出土の銅鐸は復元高32.2cmの外縁付鈕I式四区袈裟襷(けさだすき)文鐸と,同じく22.3cmの扁平鈕式四区袈裟襷文鐸である。

 ひとつ忘れてました。7番の地図の横に8番の土の塊を置いてますが、これは、大福遺跡の銅鐸の中にあったんです。大福の銅鐸調査が終わって、現場で埋まったままの状態の調査が終わって、それを取り上げて、すぐ横のベニヤ板の上に置いて、30分ほどかけて、土がついたままの状態の写真を30分ほどかけて撮って、建物の中に入れようと持ちあげたら、すっぽりとこの土が残ってしまった。30分撮影しているうちに、中の土が銅鐸から離れたんですね。多分、乾燥したんでしょうかね。すぽっと残ってしまって、この土が満タンに入っている。だから私は神戸の桜ケ丘の銅鐸の中を観察した時に、満タンに土が入っているという事はゼロでした。全部、土が斜めに自然に入った状態の土の錆痕跡が銅鐸の内側にある事を見ておったもんですから、満タンに入っているという事は、これは人間が無理やり詰めたんだと。だから、私は「埋め殺し」というふうに思いました。「ほめ殺し」というのがありますけど、これは「埋め殺し」、もう二度と出てくるなというふうな埋め方をしたんだなというふうな事を思って、喜んで写真を撮ったのがこれです。
 てっぺんの前のこの部分に穴があります。穴のとん先まで土が付いてました。まさに満タンに詰め込んでいたという証拠の、自分で撮っておきながら、貴重な写真であります。そういうのもありました。

野洲市立銅鐸博物館展示のさまざまな大きさの銅鐸
野洲市立銅鐸博物館展示のさまざまな大きさの銅鐸

【質疑応答】
・質問「先生が実験された銅鐸は実際に割れたんですか」
カルタのような大きさに10センチくらいにほぼ長方形に割れたものと、それから全く不整形、三角やらなにやらわけのわからない形に割れるのと。それから、大きいのは幅が5、6センチで、長さが25、6センチの長細く割れるのと、それくらいの感じでした。

 

2011年1月8日滋賀県守山市鎮座の勝部神社へ参拝。有名な火祭りを堪能した。勝部神社の御祭神は物部布津命・火明命・宇麻志間知命で正式名称は物部郷総社 勝部神社。戦前までは物部神社または物部大明神、勝部大明神と称されていた。栗太郡物部村に属し、この地方にも古くから物部氏が勢力を誇っていたことがわかる。
2011年1月8日滋賀県守山市鎮座の勝部神社へ参拝。有名な火祭りを堪能した。勝部神社の御祭神は物部布津命・火明命・宇麻志間知命で正式名称は物部郷総社 勝部神社。戦前までは物部神社または物部大明神、勝部大明神と称されていた。栗太郡物部村に属し、この地方にも古くから物部氏が勢力を誇っていたことがわかる。

・質問「成分によって変わってくるんじゃないですか」
と思います。ただ最初に割った時に、これはNHKとは関係なしに、兵庫の博物館の実験としてやったんですけれども、その時も県内の研究者が何人か来ておって、大きなカケヤで叩く用意をしておったんですが、せっかくみんな来てんだから、いきなり最初から大きく叩かないでそっとやってくれと。私も好きですから自分でやったんですが、そっと叩いたら全く割れない。今度、思いっきり叩いても割れませんでした。それは、薪で800度くらいまで熱して、そして水をぶっかけたら叩き割れやすいだろうと聞いたもんですから、熱して水ぶっかけて叩いても、何べんやっても、思い切りやっても割れませんでした。それで、なんで割れないんだろうなと思って、今度は熱したまま水をかけずに、どうしたらいいんだろうと思って、なんとなくカケヤを下ろしたらパコンと割れまして。水をかけたら硬くなる。金属やってる人なら当たり前の事を、考古の人間、自分が知らなかった。ものを知らないという事をよく証明できました。
 水をかけずに、そのあと、京都でやった時も、水をぶっかけずに、熱したままで割ったら、簡単に割れるというものでした。金属やってる人には当たり前、理科系の人にとっては当たり前の事だと思いますが、文化系の人間にとっては発見でした。

ご覧のような大松明を焼き払い,この1年の無病息災を祈願します。 祭りの主体は,フンドシ姿の若衆達です。この火祭りは,滋賀県の奇祭の一つで,県の無形民俗文化財に指定されています。
ご覧のような大松明を焼き払い,この1年の無病息災を祈願します。 祭りの主体は,フンドシ姿の若衆達です。この火祭りは,滋賀県の奇祭の一つで,県の無形民俗文化財に指定されています。

・(質問聞こえず)
普段、銅鐸をどこに保管したかというのは、分からないですね。ひとつの考え方としては、高床の倉がありますので、高床の倉に稲籾と一緒に保管しておったんじゃないかという考え方もあります。それは、ひとつの考え方であって、まったくそれは分かりませんね。そんな出方はしていない。なんせ、高床の倉は建ったまま残っておりませんから分かりません。それから土中保管というのは、中国のドウコウなんかは、中国の南の方に銅のでっかいバケツみたいのがありますが、それは土の中に保管しておくのがあるという事から、もしかしたら銅鐸も土中保管があるんじゃないかという事が言われているんですが、埋まった状態のままの銅鐸は取り出した痕跡はないですね。何回か同じ穴に、前掘った穴にまた持ってきてまた埋めたという、穴のきりあいといいますか、がないものですから、一時埋めた状態のままで出てきておりますので、ないんです。ただ、銅矛は、北九州市の重留遺跡で縦穴住居の中に銅矛が2本でしたか、横に立てて埋めてありまして、それは取り出し痕跡が3回ほどでしたか、土の状況から、取り出してはまた埋め、取り出してはまた埋めているというふうに報告されているのがあります。
 だから、九州の銅矛の場合は、取り出してる痕跡のあるのが1例ある。銅鐸の場合は、埋まったままの銅鐸に関しては、取り出し痕跡は1例もない。したがって、日常の保管の状況は、銅鐸に関しては分からないという事でしょうかね。

勝部の火祭りの模様
勝部の火祭りの模様

・(質問聞こえず)
三輪山の信仰あるいは三上山の信仰という、山を神様の拠り代とするような信仰はいつ頃からあるんでしょうかというご質問なんですけど、三輪山に関しては、民俗学のイケダケンタ先生という方は、縄文時代から。それは三輪山の神様は蛇なもんですから、白い蛇なもんですから、縄文土器で火焔土器の全身のもので蛇が縄文中期などにデザインされているのがありますので、それを元にして、三輪山信仰というのは縄文にさかのぼると言っておられるのですが、考古学的に三輪山に関する信仰と思われるような確実な遺物といったら、5世紀に出てくる化石型のケンガタキンとかカガミガタキンが三輪山の麓で出てきましたので、確実には5世紀からですね。ただ、私は纒向遺跡で、建物の方向が三輪山を向いているのが2例と、それから、ただし建物の方向といっても、これは一間四方の建物です。一間四方という事は、どっち向いているか分からないんですよね。ただ、それの一辺がたまたま三輪山を向いているというのが2棟あります。それから、古墳の長突円墳の突出路、いわゆる前方後円の前方部が、主軸が三輪山を向いているのが纒向の4つの古墳のうちの1基だけが、纒向石塚だけが三輪山のてっぺんを向いてます。だから、3世紀の段階には三輪山信仰があった可能性は、私は思っていますが、今のところまだ証拠不十分でしょうね。三上山についてはちょっと分かりませんが、三上山はさっき聞いてましたら、伊勢遺跡などから見る三上山は非常に眺めがいいんだそうで、神奈備型というおむすび型の山に対する信仰は、確実にいつからというのは難しいですけれども、なんといいますか、あんまり学問的ではないですけれども、古くさかのぼる可能性はあるんじゃないのかな。やっぱり富士山見たら、どんな人でもきれいだなと思うし、あの山には神様がおるんじゃないかというのは、そういう事はあり得ると思いますけれど、学問的な証拠としては、三輪山の場合はせいぜい5世紀、三上山の場合はちょっと分かりません。

勝部の火祭りの模様
勝部の火祭りの模様

・(質問聞こえず)
京都でやった時は、鋳型を熱してました。だから、薄くできたんだと思います。それと、京都の場合は成分を柔らかく、すずを多く入れたみたいで、成分としては違っているんですね、銅鐸と。ですから薄くできたんだと思います。
(成分は何パーセントぐらいですか?)
数字は覚えていませんけど、公には発表されています。活字になっています。
そうですか。鋳型を熱しておれば、銅鐸の成分そのものでも薄くなるんでしょうかね。
(冷却が遅くなりますから、~)
実験やる時は、兵庫では近くの理系の人に来てもらっていろいろ教えてもらいながらやったんですが、ごく初期の段階から理系の人に入ってもらって一緒にやったら、いろんな事が分かるだろうと思いますね。

・(質問聞こえず)
さきほど私が言いましたのは、近くに神社がないという意味ではなくて、近くに神様を示すような土地の名前がない。ですから、もし、昔の小字名とか、今消えてしまっている地名でこの近くに神様を示すような土地の名前があったらいいなと思いますけれども。神社はいつできたか分かりませんし、それはまた別なテーマだろうと思います。

以上

新年の清らかな雪をかぶる御上神社本殿の檜皮葺の屋根(2011年1月8日勝部火祭りに合わせて初参拝)

孝霊天皇の時代、天之御影命(=天目一箇神)が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝が三上山を神体(神奈備)として祀ったのに始まると伝える。御上祝は、野洲郡一帯を治めていた安国造の一族であり、当社の祭祀は安国造が執り行っていた。明治から昭和にかけての発掘調査では三上山ふもとの大岩山から24個の銅鐸が発見されており、三上山周辺で古来から祭祀が行われていたと考えられている。

境内説明板
境内説明板
神体山三上山(2011年12月3日銅鐸研究会に合わせて参拝時に車中より撮影)
神体山三上山(2011年12月3日銅鐸研究会に合わせて参拝時に車中より撮影)

第67回銅鐸研究会 講演資料