第一章 國津比古命神社古墳&櫛玉比賣命神社古墳
七夕祭り-天の川伝説の元郷たる風早の地では、秋季大祭に合わせて年に一度、彦星たる男神(櫛玉饒速日尊)と織姫たる女神(櫛玉姫命)が、互いに向かい合った御社殿を出られて、毎年新調することにこそ意味のある御神輿にお渡りになられます(御動座祭=神婚特殊神事『宵の明星』)。そうして翌朝宮出しされた御神輿は、氏子に担がれながら渡御道の要所において、担棒長柄を高く交差させ合う神威発動の見せ場を作ります。これは交合(まぐわひ=男女の睦事)で、「これでもか!」と言わんばかりに夫婦神に満足していただけるよう、何度となく交わし差し上げが展開されていきます。日本三大荒神輿に数えられる「神輿破壊」と並んで、このような「神婚祭礼」は全国的に例がありません。
やがて一日かけて氏子町の渡御が終わる夕方には、神輿の本体に御祭神の新魂(あらみたま)が宿され成長し(10月10日かかる人間と違い、神様は一夜にして産道を駆け上がります)、出産のその時を迎えるのです。神輿を石段から投げて壊すことによって、生命力漲る常若(とこわか)の象徴たるご神体が<御生(みあ)れ=誕生>されるのです。
まさに神輿落としは、向こう一年氏子たちを幸せに導く幸魂(さきみたま)の母胎(神輿)からの出産を神人一体で共に祝う神事にほかなりません。全国的な御神輿の取り扱い方が標準になっている価値観の中で、「神輿破壊=神輿落とし(宮入神事)」については、大半の国民の方々は奇異に感じられるでしょうが、決して神輿をぞんざいに扱い、破壊すること自体が目的ではなく、また来年新たな穀霊(稲霊)が五穀豊穣をもたらし、氏子民草には夫婦和合の下、子宝に恵まれ、行く末永く「風早物部王国」が立ち栄えるように祈る祭礼であることを、ぜひ分かっていただきたいですね。
平成25年10月2日 伊勢神宮内宮様の「遷御の儀」を慶祝して
愛媛県神社廳松山支部北条分会神社総代会
正岡地区代表理事
松尾神社総代 饒昇 拝
みこしを壊す。神と人とが一体となる。ずいぶん荒っぽい神事である。
静なる祭り 祈り 一 願 成 就
「古代の歴史を、人としての生き方を、
という先人からのメッセージ・暗号かもしれません。
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(國津比古命神社境内「神輿落とし」説明看板より 起草:同社宮司 井上忠史) |
風速國造神主家古墳
国津の丘に櫛玉比賣命神社古墳がある。
昭和42年(1967)11月愛媛大学の研究班玉岡・橋本氏らが、この表面実測をしているが、前方後円墳で規模もかなり大きいとしている。古墳の入り口方向は、南から西へ約48度の方向に傾き、後円部の直径約35メートル、前方部の長さは約40メートルで総長75メートルの古墳である。後円部の覆土の高さ約8メートルである。
前方部先端の盛り土の高さは約5メートルで円丘の端からその前方部の中央部の大部分は土を切り取り、社殿並びに前庭広場としており、ただ社殿裏、前方先端部に葺き石が残っていているほかは、ほとんど大部分が、変形している。しかし後円部は完全に残されている。の高さ約8メートルである。
この櫛玉比賣命神社は郷社で天道日女命、御炊屋姫命を祀る。古蹟史に饒速日尊は天照大神の孫ニニギの兄である。饒速日尊は天道日女命を娶り、天香語山、宇摩志麻治の2子を生むとあり、阿佐利は国津比古命神社とともに、饒速日尊の妃を祀り櫛玉比売命神社を建てた。その頃の神社はやや南方の小山、今の宗(そう)昌(しょう)寺の丘にあった。後(ご)水尾(みずのお)天皇の寛永年間に命を受けて現在地に奉遷されたもので、中古は祓入坐(はらいいります)大明神(だいみょうじん)と呼ばれた。
これは勅使道(現在の北条北中学校南側の市道)が昔宗(そう)昌(しょう)寺門前まで通じており、まず風早土手浜から上陸した勅使が、最初に妃神たる櫛玉比賣命神社に参詣したことを示す位置関係であり、なぜならここでまずお祓いを行ったのである。それからメインの饒速日尊の宮殿を参詣したのである。よって祓入坐(はらいいります)大明神(だいみょうじん)の異名があるのであると、生前、井上先代宮司に教わったことがある。その社殿配置や御両社の年中祭祀は神道の古体を残す伊勢神宮の外宮と内宮の関係に非常によく似ている。